2010年12月

 
 年も押し詰まってからの訃報だった。亡くなったのは28日で死因は肺癌だったという。この病気は有名人の訃報で最近よく聴くものだ。今や肺癌の死亡率は高まっているとのニュースに接した。
 
 もうこの大女優については何を記しても、屋上に屋を架すに等しい。成瀬巳喜男監督や木下恵介監督の名作がまず浮かぶが、子役時代を合わせると芸歴は80年近く前に遡らなければならない。最近は文筆の方に専念していたというが、結構舌鋒鋭いものがあった。
 
 謹んでご冥福を祈るとともに、ご苦労さまと声をかけたい。
 
(追記)
 木下恵介監督がやはり年末に亡くなっている。12月30日ということだ。これも享年86歳だった。似たような時期に同じ年齢で亡くなるという符合は因縁を感じる。

1959年に公開された山本薩夫監督の代表作の一つ。一般的には新東宝が配給したが、映画館のないところは映写機を持ち込んで自主上映されたという。また、制作が「全国農村映画協会」という農協系の団体の映画部門のようで、そうした後押しもあった。農村の婦人らからのカンパで制作された映画である。
 
 さて、山本監督としては戦前の作品は別にして、珍しい女性映画である。松竹の木下恵介監督がやってもいいような題材である。だが、山本監督らしく権力を握った側の行いには厳しい目を向ける。大地主の旦那の姿などがそうだ。米騒動などのモブシーンなどは手馴れたものだ。間には戦争があり、死んだとあきらめていた長男が復員してきたりする。その裏返しは戦争への強烈な拒否の姿勢である。次男は一旦病気で帰宅するとヒロインの夫は世間体を気にして、また当時の権力に阿って次男を罵倒する。
 
 主演の望月優子はこの映画の影響で「日本の母」というようなイメージで見られたし、政界にもデビューしている。ただ実際は家庭的な人ではなかったらしい。また、共演の三国連太郎が病気で倒れる夫の演技をするのに凄いメイクアップで登場、望月は画面では影が薄くなると危惧して、山本監督に抗議したという。負けん気は相当なものだったらしい。そういうエピソードを知って観るとまた違った印象を映画は受けるものだ。

 29日、30日連続で日本経済新聞の文化欄に掲載された記事の題である。少し前ならちょっと難解で作家性の強い作品を若者は観たものらしいが、最近はそういうことはないらしい。TVシリーズを映画にしたようなものを好むのだそうだ。内容の取り組みやすいものに流れるという。そしてミニシアターの閉鎖も相次いでいるという。
 
 地味な作品や、新興国の映画などはお蔵入りしているものが大きいという。中には製作会社が倒産してフィルムが行方不明になったので、監督自身が執念で探し出して自主配給した事例もあった。
 
 邦画がいいと言われるが、果たしてそうか。作品の質も落ちているように思えて仕方がない。CGといった手法は発達したが、中味が伴わない映画もいくつか観てきた。これからが心配ではある。

 
 先の項の「蝶々夫人」と同時リリースのもので、これは現代作品である。今、別のレーベルからネーデルランドでの本作公演の映像が国内盤で発売されている。
 
 この作品は日本人にとっては複雑な思いをさせられるものである。原爆開発の指揮する物理学者オッペンハイマーの苦悩を扱ったものだが、何故日本に原爆を落とすのかの開発者たちの自問自答が繰り返される。そして最後になって突然日本人女性の声による日本語のナレーションが入る。「水をください、私の夫が行け不明で探してしてください云々」といった趣旨だが、日本人以外は効果音のような感じである。ただ、原爆投下の正当性だけを主張しているのでもないことが救いではある。
 
 MET公演で指揮をするのはアラン・ギルバート。彼は現在NYPのシェフでもある。名前からは察しづらいが、彼の母親は日本人である。その母は今もNYPのヴァイオリン奏者、建部洋子。父親も元NYPのヴァイオリン奏者だった。母親は前にも触れたが私の同郷の先達である鷲見三郎の門下生だった人。この指揮者は原爆のことを承知して、指揮に臨んだのだろうか。
 
 最後の日本語の独白をどう扱ったかを注目してみた。すると薄幕が下りて、英語字幕が表示される。観客にも内容を知らせるというこれは誠に良心的な演出だと思う。

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 先頃、NHKで放映され、Live Viewingでも上映されたMETの「蝶々夫人」の公演映像がパッケージされたソフトになって発売される。
 
 最近、保守的だったMETも現代化した舞台をかけるようになったみたいで心配していたが、ご覧になった方々の評を拝読すると、これは穏当な演出だったようである。映画「イングリッシュ・ペーシェント」を監督したアンソニー・ミンゲラの演出だという。
 
 DVDが手許に届きモニターに映してみた。やはり実際自分の眼でみないと他人の評で判断するものではないと痛感した。まず、アメリカ人たちの扮装は至極まっとうであった。しかし、日本人のいでたちは殆ど漫画の世界である。神主が烏帽子をしているのはいいが、一般男子が全て烏帽子のようなものを付けている。ヒロインを断罪するボンゾは僧侶なのに神主みたいのには驚いた。また、ヤマドリに至っては歌舞伎衣装の出来そこないみたいでこれには呆れてしまった。蝶々夫人もスズキも太り気味で、昔のオペラみたいだ。それから子供は人形を使っていて文楽のまねごとみたいなことをしている。日本なのか中国なのか、全く国籍不明の状態は日本と日本人を舐めているのか、思うほど噴飯な内容であった。

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