2014年07月

 
 伊藤整の小説の映画化。研究一筋の技師はその功績で重役に抜擢されるが、妻がピアノ教師と不倫、娘もその技師に近づいた大学助手と行くところまで行く。本人も戦時中に懇ろになった女性が近づく。そういう人間関係を増村保造監督らしいドライでかつスピーディに描く。日本映画にしては珍しいイタリア映画風な味わいのする作品である。
 
 登場人物はどれも自分本位で倫理観がどこか欠如しているような人たちだ。主人公の技師の務める会社の社長は、これまた経営者としてはあるまじき姿勢で、利用するだけ利用し、部下は奴隷と思っている。儲かれば何をやってもいいという男だった。しかし、他の人物は大なり小なり似たような人物ばかりである。タイトルはそうしたモラル欠如の氾濫という意味合いであろう。

[出演]アンナ・ネトレプコ(アンナ・ボレーナ/ソプラノ)エリーナ・ガランチャ(ジョヴァンナ・シーモア/メゾ・ソプラノ)イルデブランド・ダルカンジェロ(エンリーコ8世/バス・バリトン)フランチェスコ・メーリ(リッカルド・パーシー卿/テノール)エリーザベト・クールマン(スメトン/メゾ・ソプラノ)
ダン・パウル・ドゥミトレスク(ロシュフォール卿/バス)ペーター・イェロシッツ(ハーヴェイ/バス)
[演出]エリック・ジェノヴェーズ[装置]ジャック・ガベル&クレア・スターンバーグ[衣裳]ルイザ・スピナテッリ[照明]ベルトラン・クデルク
[指揮]エヴェリーノ・ピド[演奏]ウィ-ン国立歌劇場管弦楽団及び同合唱団[合唱指揮]トーマス・ラング&マルティン・シェベスタ
[収録]2011年3月31日、4月2日&5日ウィーン国立歌劇場[映像監督]ブライアン・ラージ
 
 ネトレプコとガランチャが共演したウィーン国立歌劇場の公演映像である。映像監督がブライアン・ラージというのが、いささか抵抗はあるが、最盛期の女声が共演するのは見ものではある。ただし、現在リリースされているのは、日本語字幕はなく、英語字幕での鑑賞を強いられている。
 
 さて、話の内容はヘンリー8世のイギリス王室内の出来事である。タイトルロールは英語風にいうとアン・ブーリンのこと。主な人物の名を目にすると世界史で習った内容だった。2幕の悲劇的セリア・オペラと出る。最後はヒロインの狂乱の場となって、「ルチア」と並ぶシーンでもある。いずれもイギリスが舞台であるのが、面白い。
 
 キャストもイタリア以外の歌手が大半だし、オーケストラも女性や東洋人のヴァイオリン奏者がいたり、合唱でも東洋人のメンバーがいたりして、かつてのローカル色は後退しているように見える。舞台はシンプルだが、下手な読み替えでないのもうれしい。
 

 
 
 日活というと石原裕次郎や吉永小百合といったスターが頭によぎるが、彼らが登場するまでは、かなり路線を模索していたことがわかる。初期はこのような時代劇も撮っていた。周知の通り、戦前の日活と戦後のそれとは全く異なったものだ。戦前は大映に継承され、日活は配給専門会社になった。戦後の1954年に自前の撮影所を開設して、映画製作を再開した。当然、スターや監督の駒不足は否めず、演劇畑の劇団に依存せざるを得なかった。その劇団のうち、同社と提携したのが、新国劇であり劇団民藝だった。前者は何本かユニットで劇団総出演の映画を作っているし、後者は劇団員の出演の他、新人の演劇基礎訓練を担っていた。
 
 この作品は新国劇のユニット作品の一つ。坂本龍馬暗殺の真相を探る内容である。主人公は龍馬に憧れ私淑する。そういう人物を殺されたのだから、犯人探しに躍起になる。だが、明治の世になってその犯人の一人を捜し当てるが、その人物も所詮駒の一つで虚しさだけが残るといった内容だった。
 
 新国劇は殺陣もうまく、迫力はあった。しかし、この作品はそれが売りではなく、人のあり方などがしっかり描けていたように思う。組織の酷さみたいなものが描かれていた。新国劇の要である島田正吾と辰巳柳太郎が交互に主役を張っていたような印象だが、この作品は島田が主人公をやり、辰巳は敵役に回っていた。今やこの劇団もない。監督の滝沢英輔は京都・鳴滝組の流れをくむ人でこういう時代劇は得意とした人であった。新国劇の一党の他、滝沢修、三島雅夫、河野秋武らが助演している。

 往年のイタリアの名テノールの訃報を新聞で知った。享年90歳というから、天寿を全うしたと言っていいかもしれない。

 カラヤンの録音を聴いてみようといくつか取り出した中にイタリア・オペラもあった。その中にこの人が主人公を歌っているものが数点あった。聴く度に今どうしているのか、と思ったものだ。やはり虫の知らせとでもいうのか、その矢先の訃報だ。

 冥福を祈り、うたごえに耳を傾けたいと思う。

 今年は「タンホイザー」の舞台装置の一部が破損して、公演が中断になったという。しかも初日に。
 
 最近はイメージを崩した演出が多く、魅力がなくなってきた。演出家の独りよがりにような気がするが、ヨーロッパではそういう解釈もありということで、受け入れる人も多いようだ。でも、神話にヒッピーまがいのジークフリートが出てきてしまうとやはり考え込んでしまう。

↑このページのトップヘ