2014年08月

 ネットニュースで知った。享年80歳だったという。
 
 劇団民藝の重鎮の一人で、滝沢修や宇野重吉から直接薫陶を受けた人でもあった。
 この人を知ったのはNHK大河ドラマ「三姉妹」(原作:大仏次郎)での中村半次郎役においてであった。その
独特な風貌とコミカルな演技に存在感が大きく強い印象を放っていた。その後、「裸の大将放浪記」の舞台が
近くの町の劇場でかかり、生でもその演技に接している。他に映画やテレビドラマの脇役で活躍ぶりを見た。
 
 「男はつらいよ」ではほんの少ししか登場場面がないのに、やはり強い印象があったし、「座頭市と用心棒」では
凄みとコミカルとを両方要求されるヤクザの親分などが印象に残る。近年では「坂の上の雲」などにも薩摩出身の元勲を演じていた。元来が九州出身なので、方言もお手の物だったのだろう。
 
 慎んで哀悼の意を捧げたい。
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グーセンス:
・ピアノと管弦楽のための『幻想協奏曲』  ハワード・シェリー(Pf)
・交響曲第1番
リチャード・ヒコックス指揮 メルボルン交響楽団
 
 ユージン・グーゼンスというと指揮者というイメージが強い。いろいろなアルバムを出していて、CDにもなっている。その作品とはというとあまり聴いたことはないので、どんな音楽か聴いてみた。極めて保守的聴きやすい作品、しかし、そう印象が強いものでもないというのが率直な感想だった。
 因みにこれがヒコックスの最後の録音だという。
 
 

グノー:
・聖チェチーリア荘厳ミサ曲
 ピラール・ローレンガー(ソプラノ)
 ハインツ・ホッペ(テノール)
 フランツ・クラス(バス)
 アンリエット・ピュイグ=ロジェ(オルガン)
 ルネ・デュクロ合唱団
 パリ音楽院管弦楽団
 ジャン=クロード・アルトマン(指揮)
 録音時期:1963年6月

・小交響曲(9つの管楽器のための)
 ハレ管弦楽団
 サー・ジョン・バルビローリ(指揮)
 録音時期:1958年9月
 最近、再リリースされたグノーのアルバム。EMIレーベルやPYEレーベルで出ていたものが、業界の編成でワーナーに変わったものの一つで、やはりその面で複雑な思いで手にした1枚であった。
 
 メインの宗教曲は、聖チェチーリア(=St.Cecil)の名があるのが目を惹く。この聖人は音楽の守護聖人として知られる。現にイタリアではこの聖人の名を冠にした音楽院も存在する。多分、この聖人に感謝し、称えるための宗教曲を書こうと発念したのであろう。極めて静謐で、聴くと心落ち着く心地になる。ここでは、最後に「ドミネ・サルヴム」が追加された形で演奏される。これだけは別の機会に作られたもののようで、これを加えた楽譜も出版されているらしく、この形式でも多く演奏されるらしい。指揮者のジャン=クロード・アルトマンはあまりよく知らない人だった。1929年生まれ、1993年に亡くなっている。
 
 もう一つは、以前オーケストラの仲間が一部ではあるが、演奏しているのを聴いて、なかなか洒落た音楽だなと思った作品だ。木管セクション(ホルンも含む)のためのもので、もっと演奏されていい作品と思う。
 
 

 
 セシル・B・デミル監督は壮大なスペクタクルを得意とする人だった。宗教的な内容もエンテイメントの素材にすぎないような印象も少なからずあった。
 
 この「十誡」はデミル監督が1回目に撮りあげたサイレント作品のほうである。有名な海が割れるシーンもちゃんとある。ただ、意外だったのは誰も知るモーゼの登場する古代の話は前半のみで、それを敷衍させた現代の話のほうに重きがおかれている。壮大な古代なシーンとは打って変わって、やや平凡なメロドラマになってしまっている。大工の兄弟がいて、兄は実直、弟は商才があって抜け目がない。弟の仕事ぶりは不誠実なものばかり。ずる賢く立ち回るといった手合いで、やがて兄弟の行く手180度異なってしまうという内容だった。信心深い彼らの母親がどうもモーゼの話を読み聞かせるといった構成のようではあった。
 
 よく知られているカラー・ヴィスタで再映画化した作品は古代編のみ。オールスター・キャストなのは周知の通り。現代編がいささか中途半端であることをデミル監督は反省したのかもしれない。

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 資料には10月8日公開とある。これは増村保造監督の第2作にあたるもので、早くも若尾文子と出会っているということになる。この後、この女優をいろいろな役につけた多くの傑作を撮っていくのだった。
 
 さて、この映画は源氏鶏太の小説の映画化である。さわやかな青春喜劇といったところか。もっとドロドロしたものがあるのかと思ったら、サラリと軽く流すような感じの物語である。やや予定調和的なドラマになってしまって、調子抜けしたが、喜劇の試みということなのだろう。そうはいっても、登場人物は早口だし、じめじめした日本的な情みたいなものを排した作風はやはり新鮮に感じる。イタリア映画の喜劇みたいな筋運びは、当時としてどれだけ受け入れられたのだろうか。生みの母親との出会いもかなりアッサリと処理されていた。同じ大映の母ものとはずいぶん異なる。

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